<カエルの名前は金メダル>
2012/05/14
2012.05.14
<カエルの名前は金メダル>
金魚に与える餌を持って、門前の池に近づくと、向こう岸の岩の上から、黒い物体が飛び込む。その姿はチラリと見えるだけで、ドボンという鋭角的な音を残して、波紋だけが水面に広がっていく。もう10年も前から同じ朝を迎えてきた。
夜になると、地底の洞窟から噴出したような、鈍い鳴き声が、池の方角から聞こえてくる。
黒い色、鋭角的な音、鈍い鳴き声、これはウシガエルだと知りながら、未だにはっきりとその姿を見たことがない。
一昨年の秋、100匹の金魚を池に放したが、一年後には10数匹に激減、サギに取られたものもいるだろうが、犯人はウシガエルだと、私はにらんでいる。
昨年、100匹を追加して、新しい作戦をとることにした。カエルの口に入らないサイズに、金魚を大きく育てるのだ。
そのために、パン粉、削り節、煮干、色揚げを良くすると書いてある、市販の金魚の餌を、日に2度も3度も交互に与えることにした。
同時に、カエルを捕獲するために、ネズミ捕りを仕掛けたり、釣り上げようとしたり、魚を捕らえる竹製の「モンドリ」も池に沈めてみた。魚をすくい上げるタモ網を、闇雲に水中に突っ込んだり、今思えば笑ってしまうのだが、トンボ捕りも使ってみた。ことごとく失敗した。
ある日の午後、裏庭に出てみると、大きなカエルが石垣を見つめて、石の上でじっとしている。両手を使わないと持ち上げられないサイズだ。
「泰然自若」という言葉が、黒い物体としてそこにあるといってもいい。
なぜか私は、それを見たあと、そっと家に入ってしまった。カエルの哲学的な面構えに、尊敬の念を覚えたといったら言いすぎだが、圧倒されたことは間違いない。
キッチンの窓越しにカエルを見ていると、つもり積もっていた怒りが次第にアタマをもたげてきた。
そっと近づいてタモ網をかぶせると、勢いよく跳ね上がった。フライパンでハンバーグを放り上げ、それを受け取る要領でタモ網に戻した。大きなカエルは、小さな網の中で両腕を出している。
露天風呂で、湯船の縁から両腕を出しているようなものだ。
さらに跳ね上がろうとする時に、持ち手をゆるめ、地面近くまで下ろした。茹で上がったうどんやラーメンを、金網のザルにとり、手際よく水切りをするときの、大きな上下の動きといったらいいだろう。
カエルは網の中で、引力に逆らおうと跳躍したが、踏ん張りがきかず、わずかに動いただけだった。
あまりにうまくいくので、こんなことを何回かやっていたが、いつまでも手品師をやっているわけにいかない。それにこの網は、百円均一で買ってきた、子供だましの代物で、いつ破れるかわからない。
ビニール袋に押し込み、二回しばってからポリバケツに入れ蓋をした。
翌日、バケツの蓋を取ると、いつのまにかビニール袋から出て、端然と座っている。
客がやってくるたびに、バケツに案内した。驚く人もいたが、これは中くらいのサイズだと言う人もいた。プレゼントしたいと言う私の提案には、誰ものらなかった。
いつものように、庭で昼食を終え、コーヒーを飲んでいると、バイクが止まる音がした。
「誰かしら?」とHARUKOが顔をあげたが、私にはわかっていた。
門の暖簾を分けて、新聞屋の「金ショウ」さんがあらわれた。月に一度の集金だ。
彼の名前は「金正」と書き、「キンショウ」と読むのだが、誰からも「カネマサ」と読まれてきたそうだ。ところが、最初に私とあった時に「キンショウ」さん、とずばりと正しく読んだので、それ以来、その話を繰り返し、たいしたものだ、言っている。よほど嬉しかったのだろう。
一年前に、インターネットで情報は手に入るから、もう新聞はやめようと、新聞屋に連絡をした。電話に出た奥さんは、承知しましたと応えた。
その後、「キンショウ」さんが集金に現れ、週一度でもいいから、新聞をとってくれと、私に食い下がった。「キンショウ」を捨てないで欲しいとも言った。
年長の男にこのように言われたら、新聞はとるしかない。
一時間ほど過ぎた時、私は立ち上がって、「名人芸を披露しますから」と言って、火バサミをとってきた。何かきっかけをつくらないと、腰をあげそうになかったからだ。
そして、石臼に向かった。この金魚の家に、トノサマガエルが二匹住み着いていて、昨日、そのうちの一匹をつかまえたばかりだった。
昨日のように一発ではなかったけれども、数回目に火バサミにはさまれたカエルを二人の前に差し出した。名人には程遠いとは、誰も言わなかった。
帰りがけに、どこかでこれを逃がしてもらえませんか?と聞くと、いいですよと「キンショウ」さんが応えた。
「カエルは遠くに逃がしても、よく帰ってくるから、これも帰ってくるかもね」とHARUKOが言った。
このカエルに名前をつけたいと思うんですが、キンショウさんの名前をひとつもらえませんか?と私が聞くと、すぐに「いいですよ」と返ってきた。
「金メダルはどうだろう?」と言うと、二人とも「それはいい」ということになり、集金かばんを肩にかけ、「金メダル」の入ったビニール袋をハンドルに掛けたバイクが走り去っていった。
次の集金のときに、石臼の縁に「金メダル」はいるのだろうか?
<桜の花の塩漬け>
2012/05/02
2012.05.02
<桜の花の塩漬け>
桜の開花ニュースが、高知県から届き、桜前線は北上していった。
我家にはソメイヨシノがないが、市の中心部に行くと、あちらこちらで満開の桜を楽しむことができた。
それらのソメイヨシノが、花吹雪を撒き散らすころ、我家の二本の桜が咲き始めた。
香り豊かな、大輪の白い花を咲かせる「トモ桜」だ。10年近く前に亡くなった、建築家の「トモハル」さん、彼の屋敷にあった古木から、株分けしたもの。故人を偲んで命名した。
この桜は、今までやったことがなかったが、今年はしっかり開花した花を、ケース二つに塩漬けにした。
次に、二本の「鬱金桜」ウコン桜 が咲き始めた。この桜は、蕾の時は赤く、開花すると、外側にその赤色を少し残して、全体は薄緑色に変り、うっすらと赤みを増した状態で散っていく。
花の色が変っていく変身桜だ。蕾も一緒に塩漬けにした。
門前にある「三重桜」と、そこから株分けした子どもが、鬱金桜を追いかけるように咲き初めた。
こちらは塩漬けの常連、今回は蕾も仲間に加えた。
三種類の桜の花を、二週間かけて、大量に塩漬けにした。恐らく2000個を超えているだろう。
裏庭に「枝垂桜が」もう一本あるのだが、未だに花をつけない。
晴れた日は、朝、昼も食事は庭。空高くヒバリがさえずり、ツバメが飛び交っている。塀を越えて蝶が飛んできた。
「蝶の羽のいくたび越ゆる塀の屋根 芭蕉」
3月に100匹放した池の金魚、一日二度も餌を与えるので、ずいぶん大きくなった。
蛙に食べられないように、もっと大きく育てよう。
<杵つき餅>
2012/02/27
2012.02.27
<杵つき餅>
今年のバイキング給食は2月の15.17.23.28日の4回を予定しています。
「有悠餅」を今年もお願いしてもいいでしょうか?と、横浜の小学校から連絡がきた。
インフルエンザが流行していて、87名の欠席があったけれども、それでも、出席の子がお代わりをして、残りご飯はなしと、書き添えてあった。
全国的にインフルエンザは、広まっているようだ。
栄養士のTさんが、その小学校に着任する1年前には、ご飯の残食率が17パーセント(約170人分)、翌年15パーセント、「有悠米」を中途から導入した年は8パーセント、1年間続けた年は、5パーセントまで減少、その後さらに減り、横浜市の平均残食率9パーセントをはるかに下回ったとのこと。嬉しい話だ。
お隣のIさんが育てた米は、今や小学校で大好評、加えて「餅」も人気ものになっているようだ。
今年も、Iさんと2人で餅つきをした。
3回目となる今回の特徴は、もち米の種類をきめの細かい「羽二重もち米」に替えたこと、庭に設置したかまどで、楢や桜の薪を燃やして蒸しあげる、昔ながらのやり方ですすめたことだ。
趣味の蒔割りで割った薪が、2年分軒下に積み上げてある。乾燥したそれをかまどで燃やすと、短時間で羽釜の湯がたぎってくる。4段重ねの、角型の、蒸篭の間から、蒸気が勢いよく噴出す。この光景もなかなかいいものだ。
交代で4臼つきあげ、箱に入れて、ほぼ同じ形にした。
1日おいて、翌朝、箱から取り出し、打ち粉で化粧をして、絵を描いた和紙に包み発送した。
与謝蕪村は生涯に3000句ほど詠んだようだ。小林一茶の20.000句にはおよばないものの、松尾芭蕉の1.000句よりも多い。
その与謝蕪村と、抽象画を組み合わせた作品を、作り始めて、135句まできた。
絵画的な彼の俳句と遊んでいる。
<冷凍庫と冷蔵庫>
2012/02/22
2012.02.22
<冷凍庫と冷蔵庫>
夜中に、ゾクッととするような寒さの夢を見た。そのときは、ゾクッとした原因を覚えていたが、今それを思い出せない。そんなことをきっかけに、風邪を引くものだが、案の定、久しぶりに調子が悪くなった。
その朝、いつものように門を開け、池をながめると、厚い氷が張っていた。この厚さでは、マイナスの6度にはなっているだろうと、軒下の寒暖計を見ると、マイナスの10度だった。
郷里の松本では、これ以下の気温を体感したことはあるものの、この地で経験した最低の外気温だ。ニュースでは、ヨーロッパに押し寄せてきている、猛烈な寒気で、死者も出ていると報じている。世界の四分の一が冷凍庫状態だ。
北八ヶ岳の山小屋では、冬季、プロパンガスで動く冷蔵庫を使用していた。
冷蔵庫の中のほうが温かいので入れてあるのだが、頭を切り替えないとわかりにくい話だ。
この寒さで困っている人のことを考えていたら、万葉歌人の山上憶良さんが、自分で詠んだ長歌を目の前に差し出してきた。
高校時代にも習った「貧窮問答歌」だ。
風交じりの雨が降る夜、雨交じりの雪が降る夜は、どうしようもなく寒いので、塩をかじりながら、かす湯酒をすすり、自分よりも貧しい人に思いをめぐらしている……………….
1300年前の歌は、この寒さの中で鋭く迫ってくる。
数日後、15センチほどの雪が降った。この地域の特徴は、雪降りが少なく、降っても融けるのが早い。翌日の午後には、日影に残してあらかた融けてしまった。
池の氷も融けたので、金魚の「ワズカニ」に、乾燥した鰹節を細かくくだいて与えた。
昨年100匹の金魚を、池に放した。以前サギに食べられた苦い経験を思い出して注意していたが、捕食するものが他にいることに気がついた。
大きなヒキガエルが犯人ではないだろうか?そこで、私がとった作戦は、金魚にたくさん餌をやり、ヒキガエルの口に入らないサイズにすることだった。
料理に使用した後の、煮干、鰹節をネットに入れて天日乾燥、与える直前に細かくする。そして、日に2度も3度も与える、肥満体促進作戦だった。
ヒキガエルの口のサイズが、私の想像する以上だったのか、金魚の生育が間に合わなかったのか〔恐らくこっちだろう〕、金魚は数を減らして、わずかに11匹になってしまった。
100匹の金魚を池に放した時には、「ワズカニ」を改名しようと考えていたが、もとのまま、池はなにごともなかったかのように、静かな水面だ。4月になったら、「肥満促進作戦」に再挑戦してみよう。
金魚は減ってしまったが、メダカは増えて、30〜40匹はいるはずだ。二個の石臼、3個の大きなこね鉢が彼らの家だ。ふと、庭を見ると、イタチの「門から」が庭石の横に居る。後ろ足で立ち上がり、周囲を見回して、また門から出て行った。礼儀正しいやつだ。
<春はどこに?>
2012/02/13
2012.02.1
<春はどこに?>
朝、勝手口を出て門に向かう。門扉を観音開きに開け、金具で固定してから、長のれんの隙間から、門前の小さな池を見る。冬の日課だ。
厚く前面結氷している、薄く前面結氷している、半分ほど氷が張っている、水の状態、などをチラッと眺めてから、新聞を小脇に抱え、納屋の軒下の、温度計を手に取る。
池を見てから、取って返す間に、今朝の外気温を予測する。
たいてい当たるが外れることもある。
この冬の最低は、マイナスの6度、今朝はプラスの1.5度。春に一歩近づいた?
それから、竹を半割りにしたスズメの餌台に行き、前日与えた、モミ付の米の食べかす、モミがらを吹き飛ばす。
今日は、賞味期限切れの、イタリアの米を与えた。夕刻にもう一度与えるが、その時は、神様にあげた「洗米」にするつもり。(神様にあげた米を、食べない人から頂いたもの)
20羽ほどのスズメが、この恩恵にあずかっている。
よく言われるように、スズメの數は減ってきている。以前は、金木犀の木から、柿の木に飛び移り、100羽ほどが遊んでいたのだが。
丸い大根を頂いた。お返しに、松尾芭蕉の「見る影やまだ片なりも宵月夜」の句を添わせた。何でこの句?といわれたら、単なるこじつけ。
節分の翌日、この日にちなんだ和菓子を頂いた。この菓子にはすでに芭蕉さんの句を添わせているので、小林一茶にした。
彼は生涯に20.000句ほど詠んでいるようだ。
「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」「やれ打つなハエが手をする足をする」
「われときて遊べや親のない雀」「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」
これだけは、すぐに頭に浮かんだ。
「鬼の出た迹へ先さす月夜かな」 「待ってゝも来るや福豆福袋」
一茶が節分に詠んだ、この2句を組み合わせてみた。
私は芭蕉 時には西行 たまに人麿 毎夕?旅人
2012/01/06
2012.01.06 三代沢信寿
<私は芭蕉、時には西行、たまに人麿、毎夕?旅人>
いつ、どこで買ったかも忘れた、黒く塗られた桐の小箱。
中は二つに仕切られていて、「百人一首」のカルタ札200枚が入っているはずだ。
子供の頃の正月には、「百人一首」のカルタとりが、行事の中に組み込まれていた。
だから骨董屋で見つけた時には、和歌は数首しか思い出せなかったが、その総数である100首は当然揃っていると、そう思っていた。
持ち帰ってすぐに、どちらかが足りないことに気がついた。並べてみると、文字札と絵札の高さが違うのだ。やがて、どちらの札も足りないことに気がつくのだが、すでにその時点で、それはもうどうでもいいことで、それよりも、手描きの草書体が読めない自分に腹を立てていた。
懐かしさだけではない、何かしら、尊敬の念のようなものを、カルタ札の中に感じていた。それは文字で書いた歌のせいで、松飾りや、鏡餅をお供えする習慣を手抜きしても、正月の設えに、黒い小箱を取り出すことを続けてきたのは、美しい歌が惹きつけるのだろう。同じような思は、和紙にも感じていて、手漉きの白い和紙の束が、「百人一首」の隣に毎年並ぶのだ。
3年近く前、思い立って自作の百人一首を作ることにした。
万葉集、新古今和歌集は道半ば。
「験なし物を思はずは 一杯の濁れる酒を 飲むべくあるらし」 大伴旅人
(かいのないことなど思い悩まないで、一盃の濁り酒を飲むのがいいだろう)
松尾芭蕉はここ伊賀生まれ。もし彼が生きていたら、口にしたかもしれない野菜、果物、酒、菓子、魚貝類に、彼が詠んだ俳句を、こじつけで組み合わせた平面作品も700句に近づいた。
キンカンと二枚貝の緋オウギ貝はいただきもの。
柿は我が家で大豊作。甘柿、渋柿含めて800個ほど実り、猿に150個ほど持っていかれた。
<平安貴族の屋敷跡>
2011/12/09
2011.12.09
<平安貴族の屋敷跡> 三代沢信寿
平安時代前期の右大臣、藤原良相(ふじわらのよしみ)の邸宅跡が見つかり、「三条院釣殿高坏」と記された墨書土器が出土したのが決め手となったと、今朝の新聞は報じていた。
1200年程まえに書かれた文字と、池の底という悪条件の中でも色褪せなかった墨の存在を嬉しく思う。
藤原良相を検索すると813年に生まれ、867年に亡くなったようだ。
私が進めている「三代沢版 新古今和歌集」は、全体の半分近く、880首になった。
出来上がったその中から、誰が同時代を生きたかを調べると、在原業平が浮かび上がった。
そこで久しぶりに文庫本の「伊勢物語」開いた。
一つの新聞記事から、歴史をひも解く想像の世界に入り込み、もう半日が過ぎようとしている。
2011.07.29
2011/07/29
2011.07.29
<新しいマイペット> 三代沢信寿
今年の6月も、パリのアパートで過ごす予定だった。
昨年より期間を延ばして、40日間滞在する計画を立てていたが、大震災の報を受けて、私だけキャンセルした。
当時は、この先どのような展開をするのか予測できなかったし、こちらに避難をしてくる人があるかもしれないとか、この地の食料を供給する後方支援というような、何か、役に立つことがあるだろうと思ったからだ。HARUKOは一人で旅立った。
ふと、一人住まいのこの期間を、民宿をやり、その収益を義捐金にしようと考えた。
レパートリーは狭いものの、手打ちそば、炭火での焼き鳥、手打ちパスタなど、特徴のある持ち札?はあるし、ご飯に、味噌汁、浅漬けでの朝食はお手の物だ。食器、寝具は民宿並にそろっている。
三人の人に、料金は相談の上でと声をかけ、そのうちの一人から、自分の会社の研修に使いたい、人数は数人になるだろうとの返事をもらった。結局やってこなかったが。
四人目の人には、それほど親しい間柄ではなかったので料金のことは言わなかった。が、私の作品をお買い上げになったら、寄付するつもりでいた。
三人でやってきて三泊した。喜んで帰っていったが、もくろみは外れた。
アトリエの軒下で仕事をしていると、丸々とした大きな蜂が、頭の上を、羽音もにぎやかに飛び回っている。屋根を支えている軒垂木の木口に止まると、自分で開けた穴の中にもぐりこんだ。
もう、2〜3年前から同じ穴を巣としている。気をつけて見ると、その隣その隣と、5箇所に穴を開けようとした形跡があり、1箇所は立派な巣になっている。別荘を作ったのだ。
「新しいマイペットに名前をつけたよ。クマ蜂は軒垂木が好きなので、「垂木好き」「タルキ好き」。クマ蜂の「タルキスキー」はどうだろうか?アニメ映画で怖がられているクマ蜂は、実は温厚な蜂で、人間に全然興味を示さない。」
「こちらは今、朝の7時半。例によって近くの教会の鐘が15分おきに鳴っています。
前に来た時に修復作業をしていたサンシュルピス寺院がすっかりきれいになって、威風堂々としたなかに、優雅な姿を誇っています。映画「ダヴィンチコード」で映っていたあの教会です。
前は、工事中だったので外から見るだけだったでしょう?
中に入ったら、天井はとてつもなく高く、ステンドグラスは、ノートルダム寺院とは違った、趣のある美しさでした。プロテスタントの教会ですから、見た目も違います。
「タルキスキー」は今までで一番、しかし、「トビ蜘蛛」の「アイコン」はもう一度考えたほうがいいよ。
庭の中に、大きな宇宙を見出しながら楽しんでいる様子がわかりますが、せっかく、キャンセルしたのだから、しっかり日本の被災地に貢献してください」
パソコンのスイッチを入れたら、画面に見慣れぬアイコンが。それをクリックしたら、画面の外に飛び出した。「トビ蜘蛛」だった。
「料理教室の生徒のヨリちゃんに電話をして、配達の仕事の足を、大和郡山まで伸ばしてもらい、金魚を買ってきてもらったよ。前のメールでは100匹1000円と言ったけれど、調べ直したら100匹800円というのがあった。前の池に94匹放し、石臼に6匹放した。名前は「ハチキン」。「八金魚」の「ハチ金」ではなく、「八円均一」の「八均」。
「イチマル八」「108」も考えているがどう?」
「近くのボンマルシェも一ヶ月に一度の、ショーウインドの飾り付けをしています。
今月はブルーのスコップのようなものが、いろいろな表現でディスプレイされています。買い物意欲を、これでしっかり掘り起こすという意図かもしれません。美しい!
「消費しましょう」とキャンペーンを張って、それを連呼したり、あおったりする、どこかの国と違って、上品で、やり方が私の好みです。
近くのケーキ屋さんで、ちょっとしたお菓子を買いました。
小さなロールチョコ。中にはミニシュークリームが3つ。アートのようなお菓子とディスプレイです。どこでも、ケーキはそれはそれは美しく、おいしいのに安いのです。
てさげ袋に入れてくれたので、帰ってから袋から出したら、紐のかけ方がおしゃれで、しかもさらに開いてびっくり!
大き目の箱に、どのように入っているかと思ったら、包装紙と同じピンク色の、プラスチックのピン4本を、ケーキの周囲に刺して、動かないようにしてある。
感動!もったいなくて、まだ食べていません。
金魚の名前は、以前は「わずかに」だったわね。白鷺にほとんど食べられて、わずかに4匹残ったから、「わずかに」だったようだけれど、もうひとひねりしないとね」
朱色の花を咲かせる「緋扇水仙」が終わりに近づくと、オレンジ色の鬼ユリが下から上に段々と咲き上がっていく。
石臼の中に放した金魚は、その後3匹が死んだ。
その石臼の縁に、トノサマガエルが、どんなもんだい、と昂然と胸を張って前方をにらみつけている。
先月、補虫網でつかまえて、300メートル先の田んぼに放してきたやつだ。帰ってくるのに、3週間ほどかかった。いつもよりも一週間ほど遅かったのには、何か訳があるのだろう。聞いてみようと、もう一歩近づくと、背丈が伸びたハーブの茂みに飛び跳ねた。
名前は今まで「トノ」だったが「ドンナモンダイ」はどうだろうか?
メールを打とうとしたが、考えてみると、今ごろ飛行機は、ロシアの上空を飛んでいるはずだ。
美しい雨
2011/05/10
2011.05.10
<美しい雨> 三代沢信寿
予報どおりに、正午過ぎから降り出した雨は、細く、長く、静かに、木々の緑を洗い出している。研ぎ出しているといったほうがいいかもしれない。研ぎだし蒔絵に使う、墨の役目を、雨がかわりにやっているのだ。
柿、桜、つつじ、山椒、ふき、オニユリなどの、それぞれの緑色に加えて、おびただしい数の緑色が広がった庭は、まさに五月という月の、全ての緑絵の具をしぼり出したパレットのようだ。
その中に、ムシカリの白い花と、紅葉と見間違えるカエデの赤い葉が、鮮やかに、違和感なく緑の中に浮き上がっている。それぞれが、種の保存のためにやっているだけなのに、協調して、風景を形作っているように見える。実に不思議だ。
外ペットのスズメが3羽、餌をねだりにきて、窓の外でそわそわとしている。
そんなこんなの、ごく普通と思われてきた日常の一こまが、あの2ヶ月前の大震災以来、実に尊いものに思えてくる。
松尾芭蕉の俳句1066句を、野菜、果物に添わせて平面作品にする作業を始めて2年余。
513句まですすめた。
彼が歩いた「奥の細道」の道筋が、今回の大震災と重なっていることにも、心は痛むばかりだ。
軒下に吊り下げた竹の花器に、4月は桜を、今月に入って、モッコウバラを、そしてナルコユリを活けた。亡くなった方々への、献花の気持ちを込めている。
<モグラの花丸>
2011/01/02
2011.01.02 <モグラの花丸> 三代沢信寿
パソコンに向かっていた、12月の半ばのある朝、ふと庭に目を向けると、庭石の脇の水仙の葉が動いていた。
目を凝らしてみると、その動きが止まったので、気のせいかと思って、作業を続けていた。しかし、気になっているので、右目じりの先へ、数分おきに、視線は走っていた。
確かに、水仙が少し持ち上がったようだ。
そこでじっと見つめる。しかし、何の変化もない。
「ダルマさんがころんだ」といって振り返る、子供の頃の遊びをやることになった。
ひょっとすると、アイツかなと思ったからだ。
はっきりと土が動いた。
私は、空を飛ぶ「飛ぶペット」、地面を歩く「歩きペット」、モグラのように潜っている「地中ペット」、闇夜にまたたく「星ペット」、植物や石のように、動くことが出来ない、「不動ペット」と、5種類の外ペットとつきあっている。
アイツというのは、モグラの「花丸」だ。
久しぶりに「地中ペット」の顔を見てみようという気になった。
庭に出て、水道の栓を少しひねり、ホースの先を、水仙の根元に差し込んだ。
多少気がとがめたが、モグラを見たことのないHARUKOに、見せてやりたいという気持ちがあった。
しかし、喜ぶ半面、動物虐待という、非難の声も覚悟しなければならないので、早く顔を出さないかと、やきもきしていた。
以前、同じやりかたで、すぐに「花丸」はピンクの鼻先を出したからだ。
水はもう1トンは入っただろう。
あきらめることにした。
数日後、玄関近くの、飛び石の近くに、こんもりとした、新しい土の小山を見つけた。
生きていた安心感と、水仙から、5メートルも離れたところにまで、トンネルを掘った「花丸」に、ますます会いたくなった。
日ごろ、動物愛護を口にしている私にとって、これは、かなり矛盾した行為なのだが、またもや、新しい土の小山に、ホースを差し込んだ。
2トンの水が流し込まれた。「花丸」は姿をあらわさない。死んでしまったのだろうか?
大晦日の朝から降り始めた雪は、元旦の朝には、15センチほどになっていた。
晴れ渡った空の下で、金木犀の枝は、雪の重みに、耐えかねている表情を見せ、南天の木は、今にも折れそうなほど、頭を垂れている。
雪は、その日の夕方には、半分ほど融けた。
夕方、駐車場に行こうとして、ふと見ると、門の脇の、柿の木の近くに、新しい土の小山があった。「花丸」は生きていた!
3トンの水がアタマをかすめたが、顔を見るのは、春の終わりまで伸ばすことにしよう。
<日本自炊団>
2010/12/21
2010.12.21
<日本自炊団> 三代沢信寿
アクセサリーの展示会の会期中、作者のIさんは、「クラバー亭」と名づけた蔵を、自分の寝るところに選んだ。
外の景色がよく見える、二階の座敷や、裏の畠を見下ろせる、北側の小部屋を気に入った時期もあったが、このところ、「クラバー亭」が彼女の定宿?になった。
昨年の、ガラス展の作家は、「ウチに来ませんか?」とオープニングパーティーに訪れた来客を、蔵の二階に誘った。
立つと頭がつかえる狭い空間に、10人あまりが寄り添って、二次会を楽しんだ。
来客には、自分で寝るところを決めてもらっているので、別棟の蔵を選択した人は、自分の家という感覚になるようだ。
アクセサリー展の会期は6日間だったが、Iさんは12日間滞在し、料理教室の生徒と旧交を暖め、喜んで帰っていった。
後日、女王さまの待遇で、体重が1.5キロ増えたと、電話で話していたので、そのうちの300グラムくらいは、私に関係があるのだろう。
というのは、HARUKOが東京に出張していた数日間は、日本自炊団の団長が、三度三度食事を作っていたからだ。
ある日の夕食の献立
大きなカブを、六等分して、厚く皮をむき、鶏ガラのスープでゆっくり煮込む。
さて、何で味付けをしようか?
冷蔵庫を開けると、頂き物と思われる桑名の「アサリのしぐれ煮」を見つけた。一粒、味見をした上で、全量を鍋に入れた。煮込むこと30〜40分、カブの下半身が、ほどよく色づいた。カブは和食、洋食、いずれにも使えるすぐれものだ。
その翌日の献立
風呂吹き大根用に、じっくり茹でた太物を4個、六角形に切り落とす。
上から見ると、星型になる。オリーブオイルを、大さじ3杯ほどフライパンに入れ、ニンニクをひとかけら加えて、弱火で香りを取り出す。
水気を切った星型の大根をフライパンに並べ、八つの切り口を、色づくまで炒める。
ソースは何にしようか?
冷蔵庫の扉を開ける。福岡から届いた明太子の箱が目に入った。三種類の中から、イカの明太子を選び、ちょっぴり食べてみる。やはり辛い。
この辛さに、甘みをぶっつけてみよう。
冷蔵庫の奥にある、変ったデザインのガラス瓶は何?
今月の料理教室に登場した、粒マスタード、マヨネーズ、蜂蜜をミックスしたHARUKO特製の、「ハニーマスタード」だ。これに決めた。
細めのパスタ(1.4ミリ)をアルデンテに茹で、大根を取り出したフライパンで軽く炒める。
さて盛り付けだ。
皿の中央に、星型大根を2個並べ、イカの明太子ハニーマスタード和えを載せる。
両脇にスイスチャード(西洋ふだん草)の美しい大きな葉を敷き、渦巻き星雲を念頭に置きながらパスタを盛る。
今日のワインは何がいいだろうか?Iさんに選んでもらうことにしよう。
<遊泳竹 浮動音花入れ>
2010/12/07
2010.12.07
<遊泳竹 浮動音花入れ> 三代沢信寿
知り合いの人から、はがきが届いた。この季節は年賀欠礼の挨拶が多いので、それかと思って裏を返すと、花の展覧会の案内状だった。
本能寺を冠した、初めて目にする流派だった。
年に一度の発表会で、最終日には終日会場にいます、ぜひどうぞと書き添えてあった。
非業の死をとげた織田信長ゆかりの寺と、流派とはどんなつながりがあるのだろうか?
知り合いの人といったけれど、ここのギャラリーでの展示会によくお見えになる方、つまり、お客さんからの、お誘いということで、義理も多少はあったものの、信長に惹かれたからというのが当初の気持ちだった。
最終日は、強い風が吹き荒れる日曜日だった。
車を走らせるうちに、信長から反旗を翻した明智光秀のほうに関心が移っていった。
というのは、松尾芭蕉の「月さびよ明智の妻の話せむ」の一句を思い出したからだ。
芭蕉は、「奥の細道」の旅を終えたあと、伊勢の遷宮に参拝し、焦門のひとり島崎又幻(ゆうげん)宅に止宿したようだ。
又幻はその時、19歳、伊勢神宮をめぐる神職間の争いに敗れて、貧窮の暮らしをしていたにもかかわらず、夫婦共々、芭蕉を温かくもてなした。
このことに心を打たれた芭蕉が、明智光秀が貧しかった頃、連歌の会を開催する費用がなく落胆していたところ、彼の妻が髪を切って売り、その費用を工面したという話を書き贈ったとのこと。
その光秀は、わずか13日で豊臣秀吉に破れ、落ちのびていくところを農民に殺され、悲運の一生を終える。
歴史に語られた、栄枯盛衰の断片に背中を押されながら、ホテルの駐車場に車を乗り入れた。駐車スペースを探して、一番奥まったところに車を止めたので、正面玄関まで足をのばさず、脇の入口から入ることになった。強い風から逃れる気持ちもあった。
つまり、展示してある活け花会場の、アタマではなくシッポから見ることになったようだ。
二階に上がり、一通り見終わってから振り返ると、はがきの差出人であるMさんの、着物姿が話をしていた。
出品者は着物姿と思えばいい、と つまらぬことに納得しながら、Mさんに声をかけた。びっくりした声が返ってきた。
この流派の特徴を尋ねたが、はっきりわからないようで、次の代を担うと思われる、若い人を紹介された。若宗匠と私は覚えることにした。
若宗匠の話では、流派の元は池坊で、そこを飛び出して新しい流派を築いたとのことだった。飛び出したきっかけが何か聞きそびれたが、そのときの決意の程は、なみなみならぬものがあったことだろう。
師の志は、末に広がった後の世の、これらの作品の中に込められているはずだ。
かつて東京で、池坊展を見たことがあるが、それとの差異はどこにあるのだろうか?
考えながら、池坊という言葉が出たので、私も「信の坊」という流派を名乗っています と若宗匠に話しかけた。
若宗匠は、真面目な声で受け答えをしたが、Mさんは笑いをこらえながら頷いているように見える。私は、自分でも驚くほど饒舌に、「信の坊」の竹製花器についてしゃべったが、どれほど理解してもらえたかはわからない。
Mさんの含み笑いと一緒に、記帳台へと案内された。つまり会場構成からいうと、出発点に来たわけだ。
帰宅してから、これらの話をすると、会場は、自分の話をするところではないでしょうと
諭された。
軒下の竹の花器は、左右に揺すると、ポッタン ポッタンと遊泳音を奏で、聞きようによっては、歴史の栄枯盛衰音にも聞こえてくる。
<こんにゃく財団>
2010/11/30
2010.11.30
<こんにゃく財団> 三代沢信寿
東京からの来客を迎えに、山沿いの近道を駅に向かった。大きな起伏の坂道を、上ったり下りたりするたびに、道端の枯葉が勢いよく舞い上がる。
時々、木々の梢から落ちた、まとまった枯葉が、ボンネットからフロントガラスをすべり、後方へ飛んでいく。
暮れようとする西の空には、淡い夕焼け雲。その下には、無限の距離を思わせる、薄い青色の空。美しい!
初めて我が家にやってくる、若い二人の女性に、この詩的な、初冬風景もお奨めだった。
しかしこの時期、我が家に着く頃には、日もすっかり暮れているはず、第一印象は、世俗的でも心が弾むほうがいい。「明るいコース」をとることにした。
「この地の七不思議」と私が呼んでいるものがあり、そのひとつが、人口10万足らずの伊賀盆地にスーパーマーケットが12あることだ。
最大のものは、1800台分の駐車場があり、大都会と違って無料だ。
このスーパーマーケットを最初に案内すると、たいていの人が、おお!と感嘆の声をあげる。今回も、おお!の声がでた。
文明のまばゆい光の印象は、車が市街地を抜け、田んぼの中を走るうちに、いつか掻き消えていく。
この先に人家はないだろうと思わせる、S字型のカーブを曲がった先の、枯れかけたコスモスに囲まれた駐車場に、車はすべりこんだ。
車を降りると冷たい空気が肌に触れ、見上げると星空。
この前に、星を見たのはいつだったの?自分への問いかけが、田園の闇の中に消えていく。
足音が門の中に入り、我が家の各部屋に設置された、布、和紙、竹、キャンドルの、あかり空間へと誘われる。外見は普通の農家造りだが、内部はアート空間だ。
翌日、旧家のSさん宅に案内した。
田んぼと田んぼの間を約100メートル、ちょうど参道のように、小道が門に続き、門の左右には、石垣の上に土を盛り上げた土塁が連なっている。
石垣の一部は、安納積みと呼ばれる、古式の石積みらしい。
茅葺の母屋、土蔵、2棟の別棟と庭を取り囲むように、ケヤキ、椎などの大木が茂っていて、離れてみると、こんもりとした木々の塊の中に家が建っている。裏手には幅5〜6メートルの掘りがあり、一本の古木が橋のように倒れている。まさに古の砦のたたずまいだ。このあたりで、一番風格のある建築といっていいだろう。
かつて、藤堂藩に仕え、忍者の元締めのような、又、火薬を扱う技能を生かせる仕事をしていたようだ。
ペリーが蒸気船で、浦賀沖にやってきた時も、公用で現地に出向いて調査したとのことが、古文書に記されているとか。
返り際に、こんにゃく作りをすすめられ、4年物の大きな蒟蒻いもと、作り方のレシピを頂いた。
客の帰った翌日、「有悠米」を作っているIさんと一緒に、こんにゃく作りに挑戦した。
農業人のIさんに、米以外の作物として、蒟蒻いもの栽培を薦めたかったからだが、4年も待てない、リスクが大きすぎるという返事だった。
レシピ通りに進めたつもりだが、茹でかたが足りなかったのだろう。すりつぶしても固いところが残るので、蒸すことにした。そのあと、又、すり鉢ですりつぶし凝固剤を入れ、バットに流し込んだが、思うような固さにならない。
一晩待つことにした。
次の日、期待を半分にして指で押さえたが、ぶつぶつの入った寒天状態、熱を加えて、凝固剤をさらに加えた。
網で漉すと、小指の先ほどのこんにゃくと、粘りの効いた液体の、ふたつのものになった。
チビこんにゃくは、「つぶこんにゃく」と名前をつけ、食べてみるとなかなかいける。
蒟蒻いもを仕入れるために、「こんにゃく財団」を立ち上げ、「こんにゃくファンド」で資金を集め、4年後を目指す、とここまでは頭の中で話をすすめてきた。
すると、その前に、「コスモス財団」のお仕事、コスモスの種の採取が先だよという声が、どこからか聞こえてきた。
そうだ、駐車場に急がなければ。
紅葉狩り
2010/11/21
2010.11.21
<紅葉狩り> 三代沢信寿
このあたりの農家は、木造瓦葺き、土壁で作られた二階建ての母屋、納屋、門(長屋門の家もある)、穀物を保存する外蔵、お膳やお椀などの食器、掛け軸、寝具を納めてある内蔵、それらを取り囲むように、瓦を載せた土塀が連なる、それが一軒の単位で、離れてみると、砦のような佇まいだ。
機械化によって、農機具を入れる倉庫も付随しているが、残念だが、それだけは、工場で生産された波板トタンで出来ているものが多い。
無神経に立っている電柱と、工業製品の倉庫を意識の中で取り除けば、建造物は、周囲に広がる田んぼ、里山と響きあって、美しい日本の原風景を形作っている。
納屋を改造したギャラリーで、年に5回ほど作品展を開いている。
11月のバッグ展は、確かな仕事をする革作家のOさんと、彼の愛弟子Nさんとの二人展だった。
会の初日、Oさんが、土間の棚の上に置いてあった、古いトランクを引っ張り出してきた。
Oさんが、ほこりを払ってテーブルの上に置き、蓋を開けた。
それを、どのように手に入れたか、記憶も定かではなく、存在すら忘れていたものだ。
何かが飛び出したわけではない。しかし、破れかけた内張り布の間に見えるボール紙の、粗末な、しかし懐かしい質感は、まさに私の記憶の中に飛び込んできた。
Oさんはトランクを仔細に眺め、材質といい、縫い方の作業量といい、最小限の仕事しかしていない、きっと戦後間もなく作られたものではないかという、専門家の結論を出した。
その夜、ふと、あのトランクを花見や、紅葉狩りをするときに持っていかれるようにならないものかと考え、翌日やってきたOさんに相談した。
私が染めて、縫製をしてもらっている、麻のブルゾンとの交換が条件だったが、彼はすぐに快諾してトランクを持ち帰った。
そういえば、最初に、彼とある展示会で知り合い、ワインを入れるバッグと、ブルゾンを交換したのがきっかけで、長いつきあいになった。
バッグ展は好評で、新顔のNさんにも追加注文があった。
最終日にOさんが、トランクを持ってきた。外は手をつけずに、蓋の内側に、ボトルを入れるところ、ガラスの皿を納めるところを作り、木の皿と弁当箱、ガラスのぐい飲みを入れた皮製の箱は、そっくり取り出せるように作ってきた。宝物がまたひとつ増えた。
先月、墨象画家で織りや編み物をこなすSさんから、女性3人による、展示会のお知らせをもらっていた。我が家のバッグ展と時期が重なっていたが、こちらが2日早く終わるので、最終日に行くことにしていた。
Sさんの編み物、手袋作家のFさん、この二人を結びつけたのは私で、旧知の間柄、もう一人Hさんは、布と糸を使った衣装、アクセサリーで、会ったことのない人だった。
場所は芦ノ湖の近く、女優のHMさんの自邸だった。
ここには、十数年前に、和紙のランチョンマットや、手描きの献立表を持参して、主催者側の一員、仕事として訪れたことがあったが、今回は客として見に行くのんびり旅、箱根の紅葉狩りも楽しもうと思っていた。
木の小型お重にご飯をつめ、真ん中に大きな梅干を一個押し込み、昆布の佃煮をおかず、本来酒を入れるボトルには、お茶を入れた。デザートに和菓子も入れた。
さて何を着ていこうかと考えた末に、自分で3000回?ミシン刺繍をした、15年ものの青系のブルゾンを着て、クロのジーンズをはいた。
1000年前の武人であり、歌人でもあった、源頼政の歌
「狩衣われとは摺らじ露しげき野原の萩のはなにまかせて」
さあ、馬に乗って狩に出かけよう、何を着て行こうか?きっと野原には萩が咲き乱れているだろうから、無地を着て行くことにしよう。朝露に濡れた衣に、萩の花が美しい模様をすりつけてくれるだろうから。
ここで粋なことは、夢にも紅葉の模様の狩衣を、身に着けようと思わないことだ。
愛称ビス、18年ものの、ビスMW(剥げ落ちようとする、車の内張りの布を、数百本のビスで留めている)にまたがり、名阪国道、湾岸道路、東名を沼津でおりて、強風が渦巻く箱根の阪を、騒音を撒き散らしながら登っていった。
きっと早朝だったら、色づいたカエデの濡れ落ち葉が、黒い車のボディーに、美しい模様をつけただろうに。
会場で会った旧知の二人と、親しく話をして、もう一人の作家Hさんを紹介された。
彼女が出品している衣装は、魅力的なバラの花びらの感触、そこで、「今度、女に生まれ変わってくるので、その時は身に着けてみたい」と話をした。
会場に隣接した喫茶室で、持参した「紅葉狩りトランク弁当」を開いた。トランクを提げてきたので、小型お重の中のご飯が端に寄せられて、3センチほどの隙間が開いている。
押されて梅干が窮屈そうだ。
帰路も風は強く、富士山が寒そうだった。
往復600数十キロのドライブを終え、夜の8時頃家に着いた。
その数日後、衣装作家のMさんに手紙を書いた。
「魅力的な作品でした。女に生まれ変わるには、時間がかかりそうなので、ひとつ相談があります。同封の写真は、今は着なくなったホームスパンのブレザーです。これをどのようにしてもいいですから、あなたの感覚で、私の身に着けるようにならないものか?作品との交換で」
投函してから2週間、いまだに返事がない。
私の、パリの空の下
2010/08/16
2010.08.16
<私の、パリの空の下> 三代沢信寿
HARUKOにパリ行きを誘われ、一緒に行くことにした。
パリは、「日本人の団体旅行」として2回行ったことがあるが、新しい視点で経験できれば実現してみたいものだ、それは何だろう?と考え、あることに気がついた。
昨春から、「万葉集」「新古今和歌集」の短歌に、私の抽象的な絵と感覚を加えて、作品としている。千年以上前の短歌を、声に出して詠んだり、歌の解釈をしたりする外に、さて、私に何が出来るだろうか?と考えた末に、思いついたものだ。
千年後の人が、私の作品を、どんな眼差しで眺めるか、それも楽しみなのだが。
「万葉集」は、学生時代に友人から贈られた「万葉名歌」土屋文明著に載っている、300余首に100首位が加わり現在400首ほど、「新古今和歌集」は、最多登場の西行法師を筆頭に15人、630首を形にした。
「百人一首」も作品化したので、古の、天皇を含めた上流階級、一般民衆、その数、数百人、1000首以上が私の心を揺さぶり、私の感覚を突き動かし、パソコンの力を借りてデジタル化し、平面作品となった。
「はがき」サイズに印刷された、それらの作品をバッグに入れ、彼等を伴ってパリに行くことにした。
しかし遠方に行く話なので、それぞれの歌人に都合を聞いてみると、見たこともない国なので、是非ともいってみたいという返事だった。片道9500キロの距離に驚いた人も居たが、73年間の生涯の、三分の二を、旅をしていた西行法師は、軽く頷いただけであった。多くの人とりわけ女性が気にしたことは、パリの気候、というよりも何を着ていったらいいか、ということだった。
最近帰国した人からは、6月だというのに夏のような暑さだったという情報を得ていたが、用心のために、春物を一枚持っていくことをお勧めしておいた。これが、到着してすぐに役に立つことになる。
果たして「花の都パリ」では、なにか見つけられるのだろうか?
出掛けに門の脇を見ると、金木犀の根元に、薄茶色の渦巻きを背負ったカタツムリがいた。
ひょっとしたらこちらにも、と冗談半分で、反対側の柿の木の下を見たら、「茗荷」の茎に、同じ模様が一匹とまっていた。
それなら塀の間際にある山桜にも、と思わないわけではなかったが、電車の時刻が決まっているので、早朝の田園を、駅に向かって車を走らせた。
近鉄大阪線から環状線に乗り換えて、車窓に見えるこまごまとした家々を見ていると、
西暦730年頃の、「難波の都」の風景と一瞬にして入れ替わり、新都造営の長官、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が、朗々と誇らしげに自作の歌をうたい始めた。
「昔こそ難波田舎と言われけめ今は都引き都びにけり」
昔、田舎と言われた難波が、都会になりつつあった時の指導者の、自信に満ちた声だった。ところが見回すと、車内の誰にも聞こえていないらしい。
それはそうだ、藤原宇合が「今は」と詠みこんだ「今」は、今から1300年前のことだ。
HARUKOの、窓の外に向けられた嘆かわしい視線、これはきっと都市計画の上に成り立った、石で造られたパリの街並みと、窓の外に見える、無秩序に建てられた木造建築の家並みを比べてのことだが、そのことは周囲の人の誰にもわからない。
電車は関西空港に着いた。
手続きを済ませて出発ロビーから見ると巨大な飛行機が何百人もの人を乗せて、次から次へと飛び立っていく。
「世の中を何にたとへむ朝びらきこぎ去にし船の跡なきごとし」沙彌満誓(さみまんせい)
世の中の動きを例えると、波に刻んだはずの航跡が、あっという間に消え去り、何事もなかったかのようだ。
我々の乗った飛行機も、滑走路に何も残さず飛び立った。
神戸の山を越えて日本海に出るだろうという私の予想に反して、飛行機は瀬戸内海を西へ進んでいるようだ。
昼食のあとで、紫式部と小野小町とどちらが好きか?と何気なくHARUKOに聞くと、源氏物語を少し学んだので、紫式部がいいというので、旅の間彼女を「式部」と呼ぶことにし、私は「西行」にした。なんのことはない、飛行機が西に向かっているから、「西行」を選んだだけだ。
しかも、私の空想世界を、「式部」はまったく知らないのだ。
11時間後、飛行機は、ドゴール空港に着陸した。
<お帰り ハヤブサ君>
2010/06/16
2010.06.16
<お帰り!ハヤブサ君> 三代沢信寿
7年の歳月と、60億キロの宇宙の旅を終えて、探査機<ハヤブサ>が帰ってきた。
その前夜、100メートル先の川に行くと、蛍が飛んでいた。川に沿って上流に歩くと、黒い山陰から空に向かって、いくつもの小さな光が舞い上がっている。
そのうちのいくつかは、空の星に紛れ込み、また川に舞い落ちてくる。
我々は、50メートルも離れていないのに、お互いの姿がまるで見えない。
家に入ってから、星と蛍と<ハヤブサ>が、ほぼ等距離で我々の話題にのぼった。
明日、パリに発つ。月末までの二週間、アパート住まいだ。
行くことが決まってから、まず、はいていくズボンにミシン刺繍をした。
すりきれそうなところからはじめ、ジグザグに色を変え、腰をひとまわりした。
次に、履きふるしたグレイのスニーカーに、黒い靴墨をすりこませた。
液状のものと、ペースト状のものを交互に使い、光沢のあるチャコールグレイに仕上げた。
ヘヤーカットに行くついでに「ユニクロ」に立ちより、七分袖のTシャツを、黒が1枚、紫が2枚、仕入れてきた。
帰宅してすぐに、胸と背中に、染めた麻布をデザインして縫いつけた。
Tシャツは、襟ぐりが大きかったので、以前作った短いマフラーを巻くことにした。
色をビビッドにしたかったので、グリーンの染料で染め直した。
松尾芭蕉の俳句と、ここで手に入る野菜、果物を撮影したものを組み合わせて、平面作品を作っている。
パリでも同じように撮影をしようと思ったが、何か一工夫、「パリ」が簡単にわかるものはないかと……….
もう一工夫、アクリル板にも参加してもらって試し撮り。
片道9500キロのかなた、パリの空の下をマイファッションで歩き回ってみよう。
パリジェンヌの反応は?
美しい田園風景
2010/05/23
2010.05.23
<美しい田園風景> 三代沢信寿
先週の週末に、「有悠米」の田植えが広い田んぼで、その一週間後に、「有悠もち米」の田植えが小さな田んぼで行われた。
いずれも、さわやかな微風が水面をなでていく、歌でも唄いたくなる陽気の日だった。
Iさんが乗る、田植え機の動く様子を見ていると、まるで無駄な動きがない。
大きな田んぼでは気がつかなかったが、動きが集約された小さな田んぼでは、あることに気がついた。田植え機の出入りするところは一箇所で、一度植えたところは再び通れない。
植えずに通り過ぎたところの、車輪の跡を消してから、そこに植えるといった、かなり高度な技を織り交ぜながら、進められていく。始と終わりが結ばれた、一筆書きの文字ように私には思えたが、Iさんからは、ただ乗っているだけ、という控えめな言葉がかえってきた。
ちょっとした、小技を使ったくらいにしか考えていない。
田んぼに水が張られ、そこに苗が植えられてはじめて、「水田」が生まれる。
同じ田んぼで、何十年、何百年も作ることができる「米」、多くの人を養うことが出来る「米」が、美しい日本の原風景を形作っている。
見上げる先にヒバリが鳴き、蛙の大合唱。間もなく、田んぼのはずれの小川に蛍が舞い、ギンヤンマ、オニヤンマ、黒アゲハチョウがのびのびと、空に遊ぶ。
秋の収穫の日が待ち遠しい。
<新古今和歌集への旅>
2010/03/18
2010.03.18
<新古今和歌集への旅> 三代沢信寿
朝、洗面所に立つと、裏手の山から鶯の声が聴こえてくる。
2週間前とくらべると、だいぶ上手になったが、気にかかる鳴き声を間に挟む。
「ホーホホヶキョ」と、3〜4度に1回、ホをひとつ余計に加える。
正しく?鳴いてほしい、いや、あれでもいいではないかと頭をめぐらしつつ、しかしいつまでも歯を磨いているわけにいかないので、反対側の、田んぼを見下ろす部屋に移動する。
カーテンに手をかけ、半分開いたところで、門の脇の金木犀がザワザワと動く。と同時に数十羽の雀が、隣の柿の木に飛び移ったり、空中に舞い上がったりする。4〜5羽はガラス窓にぶつかるような勢いで、ホバーリングをして、至近距離でこちらを見ている。餌を催促しているのだ。
カーテンを全開すると、窓の外は、まあ何とたくさんの雀が………….
階下のカーテンを全部開けて、米の入った袋を持って庭に出る。お待ちかねの餌タイム。
ダシをとった後の煮干、サンマの頭は、包丁で細かく刻んで庭にまく。
ツグミやジョウビタキに食べてほしいのだが、入れ替わり立ち代り猫がやってくる。
メス猫の食べている後から、オス猫がいどみかかる。恋の季節だ。
立春を過ぎて「新古今和歌集」をひも解くことにした。
「西行法師」の95首に続いて、「式子内親王」の49首を完成。今日から「藤原定家」の46首にとりかかった。王朝時代の素晴らしい感性を味わっている。
<杉の切り株>
2010/02/28
2010.02.28
<杉の切り株> 三代沢信寿
今月の中旬、「有悠米」の生産者Iさんにも手伝ってもらい、「有悠米のもち米」で餅つきをした。
つきあがった餅は、A4サイズくらいの4個の箱に流し込んだ。厚さは6〜7センチだろう。
少し硬くなってから、箱から取り出し、ビニールの袋に入れ、彩色した和紙に包んだ。
テーブルの上に置いた、和紙に包まれた塊は、まるで金塊のようだ。「金塊餅」と墨書しようかと思ったほどだ。
送り先の、横浜緑小学校では、「バイキング給食」の中に、きなこ餅として登場させ、大好評だったと、栄養教諭のTさんからメールがきた。
餅つきの疲れは、体のあちこちに現れたが、Iさんも同じように、節々が痛くなったと、後日、笑いながら話してくれた。
春一番が吹き荒れ、鶯の鳴き声が、裏山から聴こえてきた。
Iさんが、杉の切り株が田んぼに放棄されているので、いりませんかと声をかけてきた。
山を整理したときに切り出されたもので、樹齢80年以上は経っているということだった。
急峻なところから、横に張り出し、上に伸びたので、年輪の中心が極端に偏っているという話だった。こんな話には、すぐに乗ることにしている。
田んぼの端に転がっている、2メートルほどの杉を、Iさんは、チエンソーを使って、四つに切断した。横に止めてあったトラクターの後部に載せて、田んぼから農道に出た。
この一連の作業は、実に手際よく進み、200メートルほど先の我が家の庭に、4個の杉の椅子が並んだ。いつも思うことだが、お百姓さんは、自分でなんでもやってしまう。何でも出来る、といっても過言ではない。
香りが素晴らしいコーヒーを入れ、杉の切り株の上におくと、小さなテーブルといってもいい姿だ。切り口を見ると、信じられないほど、中心が端のほうにある。
今日、年輪の中心に穴を開け、水仙を活けてみた。
汗ばむような風が吹くと、あちらを向いていた、水仙の花が、くるりとこちらを向いた。
素晴らしい未来へ
2010/01/15
2010.01.15
<素晴らしい未来へ> 三代沢信寿
近所のIさんが、有機肥料、減農薬、そして、太陽の光や風が通りやすいように、稲の株間を空け、田植えの時期も遅らせる、というやりかたで、米作りをはじめた。
精米も、真っ白にしない、7〜8づきを選んだ。食べる人の安心、と稲の健康を考えたからだ。
我々はこの米に「有悠米」と名づけ、応援することにした。
好評のうちに2年目を迎え、嬉しいことに児童数1000人の、横浜の小学校が、学校給食に取り入れてくれることになった。素晴らしい実績を持つ、栄養職員のTさんの選択だ。
昨年末、「有悠米」を食べた子供たちの声が、こちらにもメールで送られてきた。紹介しよう。
5年生
「有悠米は、味が濃くて、後味もおいしかった」
「もっといっぱい食べたいと思いました。はじめて食べたけど、あまりのおいしさにびっくり」
「味がわかりやすくて、少しかためで歯ごたえがあり、とてもおいしかった」
「お米がふっくらしていて、後味がほんのりやわらか、そのままでも、味がついている感じ」
6年生
「甘くて、もちもちしていて、おいしくて、食べやすかった。もう一回食べたい」
「食べた瞬間に、いつものお米とは違う味、食感、香りが口いっぱいに広がりました」
「いつものお米よりもおいしくて、あたたかい感じがした。つるつるしていて、光っていた。見た目はふわふわしていて、少し甘みがあり、よくかんだほうがおいしかった。また食べたい」
「ごはんだけでも、いっぱい食べられた。今までと違う食感で、何回もおかわりをした」
「有悠米」を育てたIさん宛てに、8人の子どもたちのメッセージが、別紙に書かれていた。
「あまくてふっくらとした有悠米をもう一度食べたいです。これからも、お米作りをがんばって、いろいろな人を、笑顔にしてください」
「今度、私たちの学校にいらして、お米や農業について、いろいろ教えてもらえたら嬉しい」
各家庭に配られただろう3枚の「食教育だより」を、プリンターから取り出し、二軒となりのIさんの家に向かった。夕食前の時刻だったが、もう、門を出ると真っ暗、道を急いだ。
玄関先で受け取ったIさんは、ざっと目を通すと、少し照れていた。
「学校給食たべ歩き」を、朝日新聞に連載している吉原ひろこが、この道筋を作ったわけだが、我が家に招待しますという声にこたえて、栄養士のTさんが横浜からやってきた。
大阪の栄養士、Uさんも、彼女の夫と一緒に泊まりに来た。Uさんの活動も、子どもたちのためにという気持ちから、困難な道を切り開いていて、それは、Tさんも同じだ。
この国の未来に向かう子どもたちに、出来ること、良いことは何でもやる、という姿勢で生きている人が大勢いるのだ。その夜、来客全員、「有悠米」で餅つきをした。
2月には、餅の形にして、小学校に届けることになっている。
信州の、ある小学校に「給食たべ歩き」で行くことになった、吉原ひろこに同行した。その時の、教頭の話。「時には、学校を休みたくなるときがありますが、しかし給食を食べたいのでやってくるのですよ」。その小学校では、手作りの餃子のあと、デザートはなんと。サクランボの王様「佐藤錦」が二粒。調理員の女性は、気負うことなく、ごく普通に、作る過程を話してくれた。自信を持ってやっている人に、共通する穏やかさだ。
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